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Channel: 中沢 良平 | アゴラ 言論プラットフォーム
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秋田モデルはほんとうにいいの?

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週刊東洋経済の特集「学校が危ない 教育劣化は日本経済の大問題だ」という特集があった。日本の教育の将来をうれいたすばらしい企画だ・・・と期待したわたしがバカでした。管理職と日教組と現場教員からのひとりよがりの意見ばかりで、まったくフェアに実態を反映していないと思えるからだ。この企画への違和感は、また別の機会にのべたいとおもう。

「最強・秋田モデル」は、「秋田モデル」か
その中で、「最強・秋田モデル」と紹介している。紹介されている授業はべつに秋田独自のモデルではなく、どこの都道府県でも業界的に”よい授業”とされているスタイルだ。論理的にかんがえると、ここから秋田の全国学力テストの結果がよい、ということはみちびけないとおもう。


もし文章の中からよみとれるとしたら、沖縄県が「秋田県から戻ってきた先生の授業を参考に改善を徹底し、県独自のテストも増やし、最下位を脱出した。」というくだりではないだろうか。「独自のテストを増やし」がポイントだとおもう。ようは学力状況調査の対策をしたのだろう。これ自体は、わたしは勉強スタイルの王道だとおもう。普遍的な学力などない。必要な選抜試験におうじた対策をとればいい。ただ、それを秋田モデルの成果だ、と相関関係だけをみて、因果関係をかえりみない議論があぶないといっているのだ。

そして、秋田県の中学までの成績は優秀だが、大学のセンター試験の平均点は、全国平均以下だ。ここにもう、答えがでているじゃありませんか。

生徒指導の困難さは、授業のつまらなさがボトルネックか
また、秋田モデルに詳しい秋田大学教育文化学部の教授の話によると、「まず授業をしっかりやるすること。面白ければ児童はついてくる。それが結果的に生徒指導になる。授業を後回しにしてはダメだ。」という。これもわたしの感覚だと因果関係をさかさまにとらえていて、ほんとうにつまらない授業をすれば学級崩壊しますよ、そりゃ。けれども生徒指導(生活指導)を徹底できない教員は、いくら教材研究をしてもダメな教師なのである。この倒錯した認識が学級崩壊を助長している。まずは児童生徒にナメられない(べつに頭ごなしにおさえつけるわけではないし、これは企業で管理職が部下にたいする姿勢でもおなじだろう。ようはこの人のいうことはきかなくては、と児童・生徒にかんじさせることがだいじなのである)、その上で信頼関係をきずく。その上でおもしろい、わかりやすい授業をやる。

「答えをすぐに言わないとことん考える探求型」はすべての児童にとって福音か
算数で教科書をひらかせるのがきらいな教師は多い。教科書は”とてもわかりやすい”ので、教科書をみてしまうと授業が成立しなくなるのではとおそれているようだ。教科書をひらかせないで、教科書の文章を黒板にかき、それをうつさせ、式をかかせる。そしてその解法を自力解決していくのが、秋田にかぎらず今の小学校の定番スタイルだ。200-127という問題が取り上げられているが、200を100ずつにわけて、100-100と100-27にすれば簡単ですという児童、筆算でとく児童、文章であらわす児童といった具合に”多様なかんがえ”がでてくる。自力解決をするととうぜん児童の”自力”の差が如実にでるし、”みんなの発表したかんがえ”は多様すぎて教師が整理しないことにはなにをやっているのかすらわからない児童もすくなからずでてくる。(それでもわからない児童もでてくる。)そして最後にのこるのは、教科書と同じようなノートができているだけで、練習問題をやる時間は圧倒的になくなる。そのため練習問題は家庭学習になり、家庭の教育に対する姿勢がそのまま(少なくともペーパーテストの)学力にあらわれてくるのだ。それですべての児童が最低限の理解にいたれるのだろうか?

とにかく秋田モデルと全国学力テストでの優秀さの相関は、もういちどよくかんがえてから称揚したほうがいいとおもうのだが。

中沢 良平(公立小学校教師)


学校を悪くしたのは、だれか 文科省でたらいまわしにあう

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小学校教師になって、半年が過ぎた。民間企業と比べたときの違和感を、現場からお送りしたい。L型大学の議論も盛り上がっていることだし・・・

学校にとっての”お客さま”は、だれか
「お客さまは神さまだから、子どもとそのように接してはいけない。そんなものはただのサービス業で、われわれの施している教育はそんな卑小なものではない」と言う。おそらく、三波春夫の大ヒット曲の一節を信じているのだろう。大企業ならともかく、お客さまを神様にしては、会社は潰れるだろうが。だいたいサービス業のなんたるかを知ってるのかよ。

しかし、コンペティターもエグジットもない組織は、当人たちは努力しているつもりだが、目的がないため、外部から見たら、存在のために存在している組織にしか見えない。


サービス残業でものすごくがんばっているのだが・・・
近年は小学校でもサービス残業は多い(中高はいうまでもない)。残業代も、ない。それが教材研究や学級経営に関することならば、まあ仕方ない。しかし、実際は、調査や各種届け出といった事務仕事、増えすぎたが削れない行事、個々の学校のカリキュラムと関係のないイベントの設営だったり(自治体をあげての体育大会、文集の編集、美術展覧会の準備で終電、休日出勤)、いちばん大きいのは身内にむけた研究授業の準備だろう。つまり、外部がないのだ。サービス残業のほとんどのリソースが社内営業に費やされているのである。だれの虚栄心を満足させているのだろうか。

サービス残業は合法なのか
法的にどうなのか確認すべく、まず、労働基準監督署に電話をして聞いてみた。窓口の女性がしばらくしてから「公務員は労基所ではなく人事院の管轄ですのでそちらにお問いあわせください」と言われたので、人事院に電話してみた。

人事院の代表電話にかけ、教員の労務管理はどうなっているのか尋ねてみた。窓口の女性がしばらくしてから「こちらは国家公務員の管轄ですので、地方公務員は総務省にお問いあわせください」と言われたので、総務省に電話してみた。

総務省の代表電話にかけ、教員の労務管理はどうなっているのか伺ってみた。窓口の女性がしばらくしてから「こちらは地方公務員の管轄ですので、教育公務員は文科省にお問いあわせください」と言われたので、文科省に電話してみた。

文科省の代表電話にかけ、教員の労務管理はどうなっているのか回答を求めた。窓口の女性がしばらくしてから繋いでくれた。なぜか財務課に。

財務課の男性職員に、教員の労務管理はどうなっているのか聞いてみた。「こちらは財務課ですので、その件はとりあつかっておりません」といわれたので、さすがにイラっときて、「じゃぁどこにきけばいいのですか」ときいてみた。「教育公務員課です」というので、「電話番号をおしえてください」と言うと、さすがに取り次いでくれた。

ここまできて、ようやく教育公務員課の男性職員にたどりつくことができた。「例外4要件以外の残業は、違法です。文科省としても各自治体に是正を常々お願いしています」との回答。ちなみに残業ができる例外4要件は、①職員会議②生徒指導③宿泊学習④非常変災。もしこれらで残業した場合、振休を取れる。しかし現実には、これ以外の要件でほぼ全ての残業がおこなわれており、4要件に該当しないので振休もとらせなくてもよい、と現場では解釈され、多くの教員が80時間をゆうに超えるサービス残業をしている。

悪いのは教委か
しかし、教委もサービス残業という蜜の味をしれば、業務の軽重は考えずに、なんでもやらせておいたほうがいい、となる。そして、教員自身も波風を立てたくないから、唯々諾々と業務をこなすことになる。文科省の担当者の言うように、違法ではあるのだが。ようは隣の先輩がよくわからない事務作業をしているから帰れない、というチキンレースに陥るのである。

もう少し、ムラ社会を客観視した方がいいのでは
つまり、制度は厳然と整っているのである。それを個々人が行使しようとしないだけなのである。日教組はいろいろ権利を主張してばかりいると思われているが、よくも悪くももはや機能していない(政治的な悪影響は与えているが)。東洋経済2014/ 9/20号の特集「学校が危ない」は教師が被害者のように書かれている(ありがたいことだが)が、これはまちがい。学校を不毛にしているのは、教員自身の嫌われたくないというムラ意識でもあるのだ。必要なのは、「これは私の仕事ではありません」と言える嫌われる勇気なのだ。

教員のすべきことに優先順位をつけるべきでは
子どもを安全に学校で過ごしてもらい家まで帰す(身内の目が気になるから、あんなに危険な組体操が生き延びているのだ)。次に勉強(しかし現状はG型を目指して破綻している)。私見では、これらが最優先されるのがわれわれの使命なのだが、現状での優先順位は低いと言わざるを得ない。しかしこの元凶は、われわれ教員のムラ意識としかいいようがない。だれが改革できるのだろうか。

ビジネスのような実社会から、そもそも公教育に過剰な期待をしてはいけないのかもしれないが。

中沢 良平(小学校教師 初任者)

「ほんとうの学力」とは、あるのか 小学校教諭が見た全国学力調査狂想曲

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学力がさがったという。学力はさがっていないという。どちらの根拠も一理あるように思える。一方、G型・L型大学議論が物議を醸している。世間は学力をあげろ、というが、学力とは何なのだろうか。

旧聞に属するかもしれないが、小学校6年生と中学校3年生は、2007年より毎年全国学力状況調査というものを受けさせられる。学力の到達を客観的に見ようというのは素晴らしいことである。しかし、尾木ママに言わせれば、これはほんとうの学力を測るものではないらしい。

したがって「学力」は、友達とたっぷり遊んだり、自然体験をしたり、多彩な生活体験をする中で体得した、自分の知識と感性と学びがどこかで融合し、「うん、そうだ」と法則や真理が納得できること、それらが生活の中で有機的に機能することによってはじめて獲得することができるのです。そして、こうした「わかる」の段階的な積み重ね、つまり、授業など意図的な「学習」活動の場合であれば、学習すべき到達目標を設定し、それが上がっていくことこそが「学力が上がる」ということの実体です。したがって「学力」は非常に個人的個別的なものであり、平均点(正答率)を出して競ったり無機質な数値で示せるようなものではないのです。(「全国学力テスト」はなぜダメなのか 本当の「学力」を獲得するために p47)

おっしゃることは全く正しい。しかし、私に言わせれば、そもそも”ほんとうの学力”などあるのか、あっても測れるのかだ。


あるのは個別の学力、たとえば、東大に受かる学力、日大に受かる学力、医学部に受かる学力、看護学部に受かる学力、司法試験に受かる学力、マンション管理士に受かる学力といった必要に応じた学力ではないだろうか(むろん、最低限のリテラシーは必要です)。

“ほんとうの学力”があると思ってしまうのは、公立高校の入試の形態に原因があるように思える。公立高校は、同一日程、同一問題で行われる。ゆえにトップ校に受かって、2番手の学校に落ちると言うことはありえない。しっかりとした序列ができる。ゆえに学力は客観的な能力だと勘違いしてしまう面があるのではなかろうか(そのアンチテーゼとしての”ほんとうの学力”探しは、ちょっと飛躍しすぎていると思うのである)。科目も多いし。実際あるのは上記のような個別的な学力で、そんなオールマイティな学力があるとは思えない。東大生だって、オールマイティな教養があるから出世するのではなく、会社独自の競争に適応した人が出世していて、これも個別的な能力ではなかろうか。(かれらのあらゆるものへの適応力が高いのは、蓋然性があると思うが)

もちろん、これ以上に客観・公正な入試方法があるのかといえば、ないので、建前としては非常に重要である。会社も序列がついてた方が採用に便利だろう。が、実社会で必要な能力と建前は、ちょっとちがう。

尾木ママは学力状況調査の中身を批判していたが
学力状況調査は、全国の6年生が学校で受ける国語と算数の試験だが、A・Bのタイプの問題に分かれており、Aはおもに知識を問うタイプ。BはPISAに対応した自由記述タイプとざっくり思っていただいてよい。これに生活状況調査を掛け合わせて、こんな生活習慣を送っている子は成績がふるわないとか、こんな教科が好きな子は、正答が多いとか分析する。

子どもの主観的な評価と客観的な評価をクロスさせて、妥当な結論がでてくるのかという疑問はおいておいて、ここではどのように学力状況調査が利用されているのかを簡単に述べておく。

例えば、総合的な学習の時間。総合的な学習の時間が好きで熱心に取り組んでいると回答した児童は、成績がよい。ゆえに総合学習は存続させるべきだ。といった、各部局の都合のよい解釈が加えられて、開示される。相関関係と因果関係は私にも分からないが、ふつうに考えて、成績のよい子は、いろいろ試行錯誤がおこなわれる総合学習も熱心に取り組むといったほうが、常識的な判断ではなかろうか。

総合学習を一例に挙げたが、各利害関係者が、自分の都合のよいデータの切り取り方をして、既得権を守るといった構図になっている。これが私が学力状況調査はむしろ悪い影響をあたえていると思っている所以で、調査すること自体が悪いとは思っていないのである。

個人の競争を完全否定
もうひとつ、私が疑問に思うのは、都道府県単位の順位は出すくせに、個人の評価を出さない。これでは、指導のしようもないと思うのだが。そして微妙な都道府県の順位の変動に一喜一憂している人が少数(だが声がでかい)、いる。これこそ、個人間の競争をあおってよくないという文科省と日教組と左翼の共同幻想によって、ねじ曲げられた調査結果ではなかろうか。ふつうの社会には競争以外にない(教員の世界は別として)。この点では私はしょせん学校の学力は序列を付けるためにある、とドライに切り捨てたい。もちろん、G型の方にはぜひとも”ほんとうの学力”つけてほしいと思っている。それをすべての子どもに適応しようとするのがそもそもの間違いなのだ。

本当の問題はどこに?
“ほんとうの学力”があれば日本の社会問題は解決される。そして”ほんとうの学力”などつけようがないし、存在しないがゆえにいつまでもも問題を教育のせいにできる。日本の教育の夜明けは遠いぜよ。

(教員や学校が被害者だと言っているのではありません、それに付き合わされる多くのL型の子どもが気の毒だと言っているのです、念のため)

中沢 良平(小学校教諭 初任者)

Gの世界の「学力観」がLの世界の児童生徒を駆逐する

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「ゆとり教育」が転換されてひさしい。今どきの授業風景を現場からお送りしたい。

まず「ゆとり」と「新学力観」が混同されているようなので、ここから説明させていただきたい。迂遠ではあるが。
「新学力観」は、1989年の学習指導要領で採用された学力観である。ポスト近代社会を迎え、知識や技能を子どもたちに詰め込むのではなく、子どもたち自らが思考し、社会の変化に対応できる能力の育成を目指そうという崇高な理念を体現していたのだ。今でいうグローバル人材、Gの世界を意識した内容でもあった。


「新学力観」はGの世界を意識していた
当時は、偏差値が重視される受験競争を緩和するねらいがあった。偏差値という無味乾燥な一面だけで子どもたちを評価するのではなく、多様な評価軸を提供していこうとするコンセプトであった。教師の役割は「指導」「教授」より「支援」が望ましいとされ、学力の評価も「知識・理解」よりも「関心・意欲・態度」が重視されることとなった。

一方、「生きる力」は、平成8年に第15期中央教育審議会が答申において提言したもので、「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する能力であり」、「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性」であり、「たくましく生きるための健康や体力が不可欠である」と高らかに宣言された。

みんなでGを目指すのは難しい
しかし、「新学力観」を具体化した「問題解決型学習」は、なかなか難しい学習形態の試みだった。

理想からいえば、「問題解決型学習法」とは、教師が予め準備した授業案に従って学習するのではなく、たとえば「三角形の面積の求め方を考えよう」というテーマについて、個々の生徒が思考し、その様々な考え方を黒板に提示し、議論をして、確認をしていく。そして既習事項しか使ってはいけないという縛りがあるので、教師はその枠の中で児童の発言を選んで発表させる。結果「四角形の面積を半分にすればいいんだね」だから「底辺×高さ÷2」というあたりに落ち着くが、すでに塾などで学習している児童は「なにを当たり前のことを延々とやっているんだ」と思っているし、あまり理解の覚束ない児童は、「なにを話し合っているのかさっぱりわからない」という授業が展開される。練習問題を解く時間はなく、結果、まったく「習熟」しないまま上級学年へと進学していくことになる。「習熟」を知育偏重と批判する教育関係者も多いが、良くも悪くも日本の教育で知育が重視されたことが今までにあっただろうか。

「新学力観」の真骨頂は、試行錯誤のプロセスの中に、学習の目的があるし、またその過程そのものが学習といってもいい。最終的に答え、正しい解決に到達したかどうかは、その過程に比べれば、重要ではない。教師が準備し、設計した道すじをたどって学んでいく系統的な学習ではなく、児童生徒自身の自発性、関心、能動的な姿勢から、自ら体験的に学んでいく努力の価値を評価するということである。

しかし、児童生徒主体の学習方法は、教師の思惑を超えて展開する。塾に通っている子どもには「なにを当たり前のことを話し合ってるんだ」になるし、初めて問題を見る子どもは「なにを話し合っているのかよくわからない」という事態になる。そして、不遜にも多くの教師は「塾では教えられてないほんとうの学力をここで身につけているのだ」と思っているのである。(本気でこう思っている教師は多い。地獄への道は善意で舗装されているのである。)

「ゆとり」はたんなる分量の削減だが、「新学力観」は革命的な授業スタイルの変容をせまっていた。そして、「ゆとり」は転換され、「新学力観」だけがのこった。分量・難易度が格段に高まり、「手にあまる」この「新学力観」の指導が続くことを、わたしは憂慮している。

GかLかの教育を分けて議論すべきではないか
これは、学習のおもきを「創造」か「習熟」のどちらかにおくか、という問題でもある。「習熟」はリテラシーと言いかえてもいい。「創造」できれば「習熟」はいいのか。「習熟」を図るために既習事項をもう一度学習するという「スパイラル学習」というコンセプトも登場したが、どうも付け焼刃である。たとえば、ものづくりの企業で、三平方の定理を使うことよりも、それを「発見」するような高度な「問題解決」能力が、つねに重視されるのだろうか。「問題解決」能力の育成は、Gの世界の住人のようなかなりレベルの高い試みだろう。それをLで活躍する子どもにまで要求することが、「生きる力」なのだろうか。

中沢 良平(小学校教諭 初任者)

参考:森口朗公式ブログ

いじめは学校において構造化されている ―岩手の中学2年生のいじめ自殺と一教員が見た教室の荒廃―

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岩手の中学2年生のいじめ自殺の波紋が広がっている。同じ教員として、とても痛ましく、残念な事件である。
担任が若い教諭だったということもあるが、われわれはなぜこのような稚拙な対応を繰り返してしまうのか、自問自答である。

同調圧力がなせる業
尾木ママは例によって「学校の体をなしていない」と激怒しているようだが、逆に学校の本質が表れた事件だと思う。憶測にすぎないが、担任目線でひも解いてみようと思う。

昨今は、以前ほど学級崩壊とは言われなくなったが、それでも担任も管理職もいちばんの恐怖は学級崩壊だろう。いじめ自殺のほうがはるかに深刻だが、頻度は学級崩壊のほうが圧倒的に多いので、皆「明日は我が身」なのである。
とはいうものの、昔のように無条件で担任を立ててくれる時代でもなく、そこに現代の学級経営の難しさがある。

どうするかというと、「同調圧力」を極限まで高めるのだ。「君たちはかげかえのない友達だ」「みんななかよく」「○年△組は最高にキラキラしたクラスだ」というように言葉巧みに誘導していかなくてはならない。2分の1成人式なんかもこの流れから来たものと思われる。とにかく、こうやってなんとか学級崩壊に見えないよう学級を繕うものなのだ。はた目には、いい。
だが、同調圧力になじめない子どもも少なからずいるのだ。今回被害にあった中学2年生もそういうお子さんだったのではないだろうか。

場違いな発言をしてしまう→みんなでせっかく作り上げた空気をぶち壊す→アイツは迷惑だ→だからいじめてもいいんだ

子どもたちからこんな理屈はすぐにでてくる。担任も(無意識ではあるが)自分が作り出している秩序を乱す子どもということで、このいじめに微妙に対応しづらくなる。
しかし、いじめは被害者の言動の可否は問われてはならない。いかなる原因があってもいじめは悪いものなのだ、と担任は立ち向かわなくてはならないのだ。たとえ、保護者会でいじめた側の子どもの保護者から非難の集中砲火を浴びようとも・・・(難儀な仕事である)

そして、クラスの同調圧力はかつてなく高まっている気がする。(それしかクラスをまとめるすべがないから)
ちょっとでも異質なものを排除する。異質なものがないみんなが同じ方向を見てキラキラしているのが素晴らしい教室だ。こんなふうに考えている教師や保護者はほんとうに多いと思う。(口では、多様性とかインクルージョンとか言う)

「いじめ防止対策推進法」というが・・・
NHKによると、「岩手 いじめ早期発見のための調査実施せず」とある。この調査は、大津市の中学生の自殺など、全国でいじめを巡る問題が相次いだため定められたが、この調査をしっかり行えば、この事件は防止できたのだろうか。そうは思えない。

現場での調査はこんな感じで行われている。
私のクラスでこのアンケートを行った。「いじめられてると思いますか?」「最近いやなことをされましたか?」といった質問が羅列され、「そう思う」から「そう思わない」まで○をつけるのである。職員室の机上にアンケート用紙が配られていただけだったので、私は勝手を知らなかった。
だから事前指導はとくに行わず、子どもたちにアンケートを書いてもらった。素のままで記入してもらったほうがいいと思ったこともある。

それをそのまま集計担当の児童指導専任にわたした。しばらくして、「中沢先生のクラスはどうなってるんですか?」と顔面蒼白で詰め寄ってきた。私のクラスには、いじめが”多発”していることになっているという。ようはアンケートに、「ちょっとでもいやな思いをしているといじめの心配があるので正直に書いてください」みたいに書いてあるので、子どもたちは日常生活のちょっとしたいやなことを思い出して、”正直”に書いてくれた結果なのだ。

深刻ないじめがあるクラスではないことはわかっていたので、小さいいざこざが把握できてよかったと思った。「よかったじゃないですか子どもたちの気持ちが把握できて」と言ったら、「こんな結果を上にあげたらたいへんなことになる」というので、児童指導専任は、無記名のアンケートにもかかわらず、筆跡や回収した順序から「いじめられていると思う」にチェックした子どもを特定し、校長室に呼び「いじめられていない」という言質をとっていったのだ。

このように、「いじめはあってはならない」という立場に立つと、アンケートの使われ方も本末転倒になるのだ。
ちなみにアンケートを書かせる前段階での担任の対応は、「よく考えて、よほどのことがないかぎり『いじめられている』にはチェックしないように」と事前指導するのが正解だそうである。

「同調圧力に頼った学級経営」と「いじめはあってはならない」という教条主義の隠ぺい体質がこの事件も招いたのではないか、というのが現時点での私の憶測である。
(単なる担任の怠慢が招いた事件かもしれないが)

中沢 良平(小学校教諭)

教師も迷うよ、通知表のつけ方

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教師のもっとも憂鬱なシーズン
学期のこの時期になると教師は憂鬱である。子どもたちに通知表をわたさなくてはならないからだ。
通知表と言えば、5とか4とか書いてあるやつね、とお思いの方も多いと思うが、それだけなら話は早かった。

通知表

所見といって、子どもたちを評価する文章を大量に書かなくてはならないのである。
所見は、学習指導要領の改定とともに、(教師にとって)難易度が高いものとなっていった。以前は「教科の学習について特記すべき事項がある場合に記入」だったものが、さいきんでは「児童生徒の状況を総合的にとらえる。その際,児童生徒の優れている点や長所,進歩の状況などを取り上げることを基本となるよう留意。学級・学年など集団の中での相対的な位置づけに関する情報も必要に応じ記入」となった。

書き手と受け取り手の興味がちがう
そしてここにつかわれる言葉をえらぶのがまたたいへんなのである。たとえば、

落ち着きがない等少しでもネガティブな表現はタブー。「わがまま」→「好奇心が旺盛」、「目立たない」→「まじめ」に変換。(クレームになるから)
がんばってくれましたなどの使役表現はNG。(子どもは主体的でなくてはならないという建前から)
でもなるべく具体的に書かなくてはならない。(ゆえによくわからない些末な事象が記される)
「子ども」は「子供」じゃないよね。「友だち」は「友達」と書くんだよね。(なにが基準なのかわからん)

そして、読み手にはわからないが、非常なこだわりが凝縮されているのである。
「国語で主体性があると書いてあるが、○○さんはほんとうに主体性があったのか?」「あの作品への取り組み方は、せいぜい努力したと書くのが精いっぱいなのではないか?」と当事者ですら判断しかねる内容まで検討される。

一太郎、ワードが導入されるに至り、文字数も増えた(なぜか活字になってから読む気がなくなったという保護者が少なからずいる)。また、管理職もクレームを恐れ入念にチェックするようになる。子どもや保護者が読んでもぜったいに気づかない些末な表現にまで。「評価基準(自治体などで定めている評価マニュアルの類)にはどのような表現が使われているんだ?」と。このデバッグのためにサービス残業は膨大なものとなった。

こんなに苦労して書いてるのに!
しかし、子どもや保護者にわたせば、評価(観点別学習状況という)でAの数がどうだったとか、Cがついてなくてよかったとか、そっちのほうが当然気になって、そちらほどは所見は見てもらえないようだ。しかも所見じたいも、管理職や主幹教諭、学年主任が手を加えすぎていて、いったい誰のことを書いているのかあまりにもわからなくなってしまっているのだ。
また、所見に力を入れ過ぎるあまり、肝心の観点別学習状況の印刷が他の児童ととりちがっていたり(それなりにできる子にCが大量についているとか)、出席日数がちがっていたりと客観的に見て保護者でもおかしいということがわかることが見過ごされたりすることがしばしばある。(管理職は所見の表現には口を出せるが、個々人の評価まではわからないから)

絶対評価ってなに?
そして、その観点別学習状況のつけ方も微妙なのである。絶対評価という建前がある。しかし、具体的な評価基準など設定しようもなく、みんななんとなくつけ終えてから、となりのクラスの担任と「Aの人数、多すぎなくないか?」と調整がはいるので、結局は相対評価になるのである。

また、私はなるべく主観的な判断をしないで評価をしたいので、テストを最重視しているのだが、それをすると、ベテランの女性教諭などから、「ちゃんと子どもを見ていない、がんばりもきちんと反映させてあげないとフェアーじゃない」とどこがフェアーなのかわからない物言いが飛んでくる。でもその女性教諭が、電話で保護者に成績の根拠の説明を求められて「ノートとか態度とかがんばりを考慮してるんですよ~」と苦し紛れに釈明しているところを見ると、主観なんていれるもんじゃないなと思う。(彼女はそのために、子どもの行動をものすごくノートに記録しているところが、また残念なところである)

あと当然ながら、本人は公平に成績をつけていると思っているが好き嫌いで評価をつけているのではないかと思われる事例も多々ある。(にんげんだもの)

電話(クレーム)が怖いよ
ゆえに、通知表をわたした日は、教師は電話がこわい。保護者から間違いの指摘やクレームの電話がかかってこなければ、胸をなでおろす。
このようにして、無事学期を終えるのだ。

どうでしょう?つける側の事情もわかれば、通知表の見方も少しはちがったものになってくるのではないでしょうか?

今日はこのぐらいにしておきましょう。

中沢 良平(小学校教諭)

センセイたちのいちばんの負担 ―5分ですまない生徒指導よりもたいへんなこと―

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ほんとうの負担は対子ども・保護者ではない
天野信夫さんの記事「昔の生徒指導は5分で済みました」を読んで、考えさせられた。幸い、私は、生徒指導であんまり苦労した覚えが、ない。(たしかに深刻な事案を抱えている教員は、いる)

それよりも、朝日新聞の記事「苦情対応や報告書、先生の7割「負担」文科省が初調査」が実態を表しているような気がする。

負担の1、2位は「身内の仕事」
栄えある第1位は「国や教育委員会の調査対応」で、教諭の9割近くが「負担感がある」と答えている。第2位は「研修会の事前リポートや報告書作成」で、「保護者や地域からの要望、苦情対応」は第3位となっている。おそらく生徒指導はたいへんだが、これはどんな業界でも言えることで、「お客様」の目線が、昔よりも厳しくなったということなのだ。

授業より書類づくりが仕事だよ
それよりも第1位の、お役所的「問題が起きれば報告書」が、負担なのである。たとえば、子どもがちょっとしたケガをして病院にかかるとA4で2枚程度の報告書を書かなくてはならなない。給食で髪の毛が入ってたというと異物混入ということでたいへんな騒ぎになる。学力調査の膨大な採点・入力もあれば、いじめ調査もあれば、体罰調査、体力テストの調査・入力もある。少しでも気になる子どもは数枚のカルテを作成。保護者アンケートの集計。年がら年中、アンケート用紙の数字を数え、エクセルに入力していることになる。

学校評議会や学校運営協議会(コミュニティスクール)制度、PTAも形骸化し、仕事のための仕事と化し、そのための準備が膨大になっている。

とにかく研修が多いよ
2位の「研修会の事前リポートや報告書作成」であるが、これも問題が起これば、研修をすればいいというお役所仕事である。不祥事が起これば不祥事防止研修。指導力不足を指摘されれば、指導力向上研修となる。
こういった研修によって、勤務時間に事務仕事をすることは不可能になり、「報告書」はすべてサービス残業で作られる。

そして、授業研修がやたら多いのだが、これも1コマやるだけならいいのだが、指導案という台本を書く。だれも見返さないのだが、やたら体裁にこだわるので、1コマの授業のために作成に10時間以上、その内容の検討にも数時間という行為を毎月行っている。

これに運動会や式典などの行事が重なる。

おわかりだろうか。この時点で。80時間くらいのサービス残業はとうに上回るのだ。

そしてキャパ・オーバーに
さて、ここに3位の「保護者からの執拗なクレーム」が加わったとしよう。それこそ、保護者と良好な人間関係を築けていれば、問題はないものの、そんなコミュニケートしている時間は、ない。
キャパ・オーバーになる教員も多い。しかし、報告書とちがって保護者対応は工夫のしようがある。1位と2位はなかなか作業時間の短縮が難しいのである。

そして、これを読んでいて、疑問に思った方も多いのではないだろうか。

いつ授業の準備をしているのか、と。

中沢 良平(小学校教諭)

学校は勉強するところではない

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学校は勉強するところではない「日本教」を教えるところである
公立小学校の教員になって、1年半。私の常識は覆されつづけてきた。覆されたのは、「サラリーマン・いち市民としてもっていた常識」ともいえる。

その中でもっとも大きな転覆は、「学校は勉強するところではない」ということである。もうすこしわかりやすくいえば、「学力を向上させるところではない」といえばよいだろうか。事実かどうかは別として学力低下がこれほどに騒がれる昨今。「学校は学力向上の場ではない」といわれると、いったいなにを言っているのかと訝しがられるだろう。
enpitsu

いつか詳しく述べたいと思っているが、学校のカリキュラムは学力向上などまったく興味がない。興味があるのは、集団行動である。言いかえれば、山本七平のいう「日本教の布教」といってもよい。

みんなが茫洋とだが姿勢よく授業を受けているから、自分も受けるのが大事
つまらなかろうが中身がなかろうが、子どもを静止させておける授業がよい授業とされているし、保護者もそのような授業をよい授業と評価する傾向がある。その内容如何によらず、私語や忘れ物といった規律を乱す行為が最低の行為なのである。勉強ができるかどうかなどは二の次なのだ。みんなが茫洋とだが姿勢よく授業を受けているから、自分も受ける。これが大事なのである。(そういう意味では、中室牧子氏の「学力の経済学」は日本の学校の現状をかなりとりちがえているといえる)

宿題もそうである。正直、小学校も高学年になれば、クラス内の学力差は絶望的になり、一律の宿題など無意味である。できる子どもには簡単すぎる苦行だし、低学年程度の学力しかない子どもには理解不能だからである。しかし、それをやってくること自体に意味がある。みんながやっているから。

このように考えると、大阪で大惨事となった10段ピラミッド倒壊事件も理解ができる。「みんながやっているからやる」のである。その思考様式と態度を涵養するのが学校である。危険性なんて関係ない。そして、その姿に保護者は感動してしまうから問題は厄介である。

「みんながやるからぼくもやる」この姿勢が日本社会ではなににもまして尊いのである。「友がいくからおれもいく」という特攻隊の姿に感動してしまう時代となんらかわっていないのだ。

でも、それが日本の安定におおいに貢献しているかもしれない
しかし、これが日本社会の安定に大きな役割を果たしているのも事実である。まず、「みんながどう考えるのか」を第一に考えるようになるからだ。このような教育が日本の治安のよさや、サービスの品質の(過剰な)高さ、従業員の従順さを担保している面もひじょうに大きいと思われる。

もちろんトレードオフはあって、個性を徹底的に殺す。わたしとて子どもたちの「個性」を伸ばしたい。しかし、トレードオフなので、この点をしっかり認識して、個性の教育論は再検討した方がよい。

会社とて、「とがった人材・個性をもった人材求む」といいつつ、「でも社内の空気は読んでね」と無理難題を学生や教育機関に求めているきらいもある。

この日本的呪縛から逃れるには、国立や私立の小中学校では無理だろう。学習指導要領からの束縛や、スカウトしてくる大半の人材は公立の教員なので、大差はない。強いて言えばインターにいれるという選択肢がある。

ただ、この「日本教」を学ばないという選択肢は、学校教育がもたらす「没個性による日本社会の安定性」にある意味フリーライドしているともいえる。個性重視に舵をきっても問題は深刻だと思う。

アゴラの読者には、バウチャー制を支持する方も多いと思うが、この公教育の役割をしっかりと見ないと、道を見謝るだろう。在日外国人が微増の現状でも「日本教」の維持が難しくなってきているのだから。

もちろん、わたしは「日本教」を捨てて、個性を生かし、多様な人々が共生する社会を望んでいるのだが、それには社会の側の覚悟もおおいに必要だろう。

中沢 良平(小学校教諭)


「ゆとり教育」は正しかった

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池田信夫氏の「『学校社会主義』を卒業して教育の自由化を」や、井上晃宏氏の「こどもの教育が一条校である必要はない」は、抜本的な改革としてはまったく賛同できるが、いち教員である私は、既存の学校教育の枠内での議論をもう少しだけつづけたい。
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分数ができない大学生は、ゆとり教育の問題ではない。分数はゆとり教育でも教えていた。問題は、「問題を解くことができる」という学習内容の「習熟」を否定した「新学力観」である。この「新学力観」は、「習熟」よりも「興味・感心・意欲」に重きをおく、つまり「姿勢が大事」という価値観である。語彙や計算等の習熟は「つめこみ」だから問題だ、という風潮を学校に蔓延させた。

問題は「新学力観」である
新学力観とは、1989年改訂の学習指導要領で採用された学力観である。知識や技能を子どもたちにひとしく身につけさせるのではなく、子どもたち自らがものを考え、社会の変化に対応できる能力の育成を目指すという考えである。つまり「ゼロから解き方を考えさせる」のを目指す。九九を発見することに血道をあげ、九九の習熟は「つめこみ(=旧学力観)だからだめ」とした価値観が、教育現場をゆがめ、いわゆる「ゆとり世代」の学力低下を招いた原因だと思われる。

「ゆとり教育」が転換されてしばらくたった。問題は、脱「ゆとり教育」はなされたが、「新学力観」が捨て去られていないことだ。大幅に増えた学習内容を、「新学力観」で指導すれば、「教科書が厚すぎて終わらない」消化不良になるのは目に見えていた。

「新学力観」とは、具体的には「問題解決学習」であり、「ゼロから解き方を考えさせる」という聞こえのよい施策ではあった。しかし、これは問題があった。学力が平均もしくは平均以下の児童生徒に、数学でいう定義を発見せよという崇高な課題を提示したからだ。また、「練り上げ」と呼ばれる「ディベート」のような学習形態を見ている大人は、子どもたちの懸命のやりとりに感動を覚える。しかし、テストをすると、九九はおぼつかない、くり上がり・くり下がりはできない、通分・約分はできないという状況になる。「解き方を暗記して繰り返す」のは、「旧学力観」だからだ。テストができているからといって、ほんとうの理解ができているとは限らない。だが、テストができていなければ、最低限の理解もおぼつかないということは言える。

「問題解決学習」を授業でやると、「すでに理解している」子どもしか発言せず、一部の子どものための授業となる。逆に、理解がおぼつかない子どもが発言すると、同じく理解がおぼつかない子どもはますます混乱する。ゆえに教員は、「適切な解答」を提示してくれる子どもを中心に指名することになる。「それはおまえの授業が下手なのだろう」といわれるかもしれないが、研究授業をみると、ほぼすべてがこのパターンである。

単純に教育内容の削減した「ゆとり教育」自体はよかった
「社会の急速な変化が既習内容をすぐに古いものにしてしまう」という問題意識から出発した「新学力観」ではあったが、九九を「話し合い」ながら「発見」することに主眼をおき、九九を「習得」するということを軽く扱ってしまった。九九など基本的な算術が使えないことは、就業者として致命的ではないだろうか。

たしかに、あるレベル以上では、「習得」だけでは役にたたないだろう。私が問題だと思うのは、「習得」を「古い既習内容」と切り捨て、平均的な労働者となる子どもたちが身につけるべき技能を身につけさせないまま、社会に放りだしてしまったという点だ。創造的な発想は今後ますます必要だ。しかしそれを全員に求めるのはむずかしい。

私は、単純に教育内容の削減した「ゆとり教育」自体はよかったと思っている。「つめこみ」で消化不良を起こしてしまっていた世代も確かにあるのだ。よほどの仕事でない限り、「集合」など使わない。「集合」を小学校でつめこもうとした世代もあったのだ。実際に教育現場を見ると、教師はどうしても「できない子」に引っ張られる。小学校も高学年になればクラスの過半が勉強を理解してないということもありえる。となると、授業の進捗に大きな影響を与える。学級の運営的にも。成績下位の子どもを手当しながら、上位の子どもにも適当な課題を見繕ってあげる「ゆとり」があったほうがよかったと思うのだ。

「ディベート教育」が日本の公教育を破壊した
たしかに「ゆとり教育」は護送船団方式なので、学力上位層の子どもやグローバル社会をめざす子どもには、実に物足りない。松本徹三氏のおっしゃることは間違いないのだが、それはグローバルに活躍するであろう子どもたちのためであって、すべての子どもに「ディベート」授業のような水準を要求するのは難しい。「ゆとり教育」は、地域の社会で生涯働くような多くの子どもには、適切な分量だったと思われる。サービス産業の増加に対応するため、「創造的な問題解決能力」よりも学校は、井本省吾氏の言う「読み・書き・計算」や「ルールの理解」、「平均的なコミュニケーション能力」をもつ労働者をつくるための勉強をする場にすべきである。池田信夫氏の指摘するように、公教育はその限界を見据えるべきであり、その「内容」もG型とL型に分けて議論すべきだろう。

中沢 良平(小学校教諭)
中沢 良平ブログ

学校は、要らない

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現場で働く教員として、井上晃宏さんの「こどもの教育が一条校である必要はない」は、ひじょうに納得がいく。少年保育園となってしまった学校現場と、実社会からの期待の乖離が甚だしくなってしまったということだと思う。
note

学校に一日もいかなくても卒業できる
インターに行く場合、自分の通うはずだった学校に籍をおき、学校にはこない。このようなことは今ではめずらしくないので、学校制度はすでに形骸化している。それは歓迎すべきことで、教育機関はもっとインターのように多様性があっていい。また、公立学校にも留年という制度は理屈の上ではあるが、保護者とのトラブルをさけるために、一日もこなくても卒業証書をわたしてしまう(それがまた感動の卒業証書授与式みたいに語られていたりする)。このため、本人と家庭にその気があれば、学校に通わなくてもなんら制度上の障害はない(義務教育期間なら企業に問われることもないだろう)。もし家庭で教育できれば、それに越したことはない。図書館やインターネットが発達しているので、学校に行かなくても、親が適切に教えれば、基礎的な学問は十分学べる時代である。ひとりでやれば30分もかからないことを、学校では一日かけて教えているのだ。

かりにいじめの対象になってしまった場合、学校に改善する力量がなければ、可及速やかに不登校をおすすめする。学校側としては、「いじめと不登校」という教育委員会から「出してはいけない」とされる子どもを同時に出したことに慌てふためくであろうが、そんなことは子どもや家庭には関係ない。それよりも、学校の解決能力はあまり高くないと考えたほうが現実的だろう。そして、学校には改善されれば登校すると告げればよいのである。子どもを守るために英断してほしい。

学校でないと身につかないこと
・勉強、学力 ・集団活動(に付随した精神的な成熟) ・情操教育
・・・などがそれにあたると思うが、どれもあまり機能していない。
勉強は「問題解決学習」のおかげで、以前にもまして塾には絶対に勝てない状況になってしまった(そのアンチテーゼで百ます計算なんかが一世を風びした。が、安直だった)。
集団活動に関しても、それによって、「空気を読む」ことに多少は長けるようになるが、そのような労働者は大企業以外ではもはやあまり必要ないのではないだろうか。そして確実によい意味での個性もつぶす。
情操教育も、美術や音楽、道徳の時間が考えられるが、学校でのそれが人生を豊かにできていたという人は少ないのではないだろうか。

ただし学校にも存在意義がある(かもしれない)
それは無償の少年保育園としての役割である。お母さんは、子どもに家にいられると、世間的にも、対子どもストレスとしても、きびしいものがあるだろう。だから、お母さんのために預かる施設、と割り切ることである。この場合、「10段ピラミッド」など言語道断で、安全第一で過ごしてもらえるように、教師の第一の役割は、工場や建設現場の監督者と同じように「安全管理第一」でいいと思う。企業も(たてまえでは)「利益よりも工期よりも安全!」と謳っている現場は多いので、それをみならってはどうだろうか。子どもの管理に特化するのである。集団行動は社会の安定性という意味では教えてもよいが、勉強はその地域の実情にあった塾に、体育はプロのインストラクターに、美術や音楽も技法に習熟した専門家に外注すれば、効率的ではないだろうか。

現行の公立学校でできないこと、でもすべきこと 能力別学級編成
ちきりんさんの「下から7割の人のための理科&算数教育」は、やっている学校もなきにしろあらずだとと思うが、これは「競争主義」という観点から教師からは忌み嫌われているだろう。日教組系の教育学者からは、能力別にしたほうが学力は下がるという意見もだされている。これは、第三者機関などの厳正なアチーブメントテストを行い、その単位が定着したかどうか認定することを提案したい。(ちなみに小学6年生全員が受ける「全国学力状況調査」はそれになっていない。学校では教えてないPISA型の問題を出題しているから!)そうしないと、いちばんの悲劇は、その子どもである。とくに算数のような教科は、前提となる前学年までの単元が定着していないと、当該学年の単位など理解不能である。しかし、日本の学校は留年をさせないので、一度おくれると、当人か保護者によほどの危機感が芽生えないかぎりキャッチアップは難しい。国語もしかりだ。だが、各教科ごとの進級にすれば、在籍はホームルーム教室のような形で、留年とはいえない制度にできるのではないだろうか。(給与も下げる代わりに、教員一人ひとりの負担を減らし、教員の人数をもっと確保すればいいと思う)。

教育の堕落は「日教組」の陰謀か
たしかに、日教組の果たした役割も小さくないが、主犯はやはり文科省だろう。政策は彼らが決めている。日教組の思想が文科省をとりこんだというより、文科省の官僚はもともと左寄りなのだと思う。今となっては、文科省が過ちを認めて方針転換をしてくれないと、状況はますます混沌としていく。逆に言えば、教員はサラリーマンになっているので、上さえ変われば現場は劇的に変わるだろう。文科省には、「教育の目的」をもういちど吟味してほしいと思う。(ちなみに教育基本法第一条は教育の目的で、「人格の完成」である。個人的には「経済的自立」くらいが妥当だと思うのだが。)

このようにいろいろなことが絡まりあって、学校は機能不全を起こしている。お子さんが登校を渋ったら、前向きに「学校に行かない」という選択肢も検討してみてはいかがだろうか。

中沢 良平(小学校教諭)
中沢 良平ブログ

学校の存在意義がわからなくなった教師の話

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松本孝之さんの「学校に通わないと決断した親子の話」は、現場の人間として、考えさせられます。

つまり学校に通っていないと集団生活ができず周りに溶け込まないとか、職につけないといったことはないのです。

既存の学校に通って唯一できることは思い出作りくらいしかない、とも言えるのではないでしょうか。

ということになると、ますます学校の存在意義はあやしくなってきます。

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ネットで予習してくる子どもたち
一部にネットの動画で予習してくる子どもがいます。さいきんネット上に上がっている動画は、かなりのクオリティで説明がうまいです。どうひいき目に見ても、ふつうの教師では歯が立たない(しかも学校は、問題解決学習というハンディも背負っています)です。教え方がうまくない教師の話につきあう必要があるのでしょうか。

学校が機能不全になっている
小学校低学年の授業は易しいと思っている人がいます。それは現場を知らない人の誤解です。たとえば、ひらがなや数字を書かせても、「鏡文字」にしてしまったりします。これが、高校生になっても直らない。だから、小学校低学年の授業はとても大切で、手を抜けない。けっして易しくはないのです。ただ、家庭で最低限の躾をしてもらえず、そこが学校にまかせっきりになってしまえば、授業を円滑におこなえません。今のように歩き回っている子どもがいる教室では、教師が細かい字の間違いを直して回ることはできません。家庭で最低限のことをやってから、学校にこないと、教室は崩壊します。最近は、注意すると教師に殴りかかってくる子どももいるくらいです。このように、学校は機能不全を起こしているのです。

学校に行くこと自体がリスクになる
教室は、平和ではありません。陰湿ないじめもあれば、学級崩壊、教師からの過剰な圧迫、危険な体育の授業もあります。しかも同調圧力が強く、その中に入ってしまえば個別の活動は断れません。もしかしたら、こういった経験をしないほうが、社会や大人に不信感を抱かずに、社会に適合できるのではないかと思ってしまいます。

なぜ学校に行くのか -みんながいくから
では、なぜ行くのか。それはみんなが行っているからという横並び意識でしかないと思います。ここまで教育現場が劣化してしまえば、行くこと自体がリスクになってしまっているかもしれない。学校に丸投げするのではなく、こういった認識をもって、お子さんを学校におくりだしてもいいのではないでしょうか。

学校は制度疲労をおこしていて、それは文科省や日教組の権力闘争などをやっている間に、現場はとおくへいってしまいました。もういちど、足元の教育現場から見直してほしいと思います。

中沢 良平(小学校教諭)
中沢 良平ブログ

日本の学校は、アジア型詰め込み教育も、北欧の「考える」教育も、やっていない

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日本の教育は「中途半端」
今年もPISAの結果が出た。例によって結果は芳しくないらしい。大前健一氏が分析している。

日本の教育方法の欠陥が一目瞭然です。日本では試験の〇×によって偏差値が決まり、人生が決まってしまうため、必死で暗記をするわけですが、記憶が定着しない学習方法ばかりですから、試験が終わると同時に記憶が消えてしまいます。

しかし、乙武洋匡氏

最新のPISA調査において、日本は「数学的リテラシー」「読解力」「科学的リテラシー」のすべてでフィンランドを上回っており、これに危機感を覚えたフィンランドは、アジア型の詰め込み教育も視野に入れた方向転換を検討している。

と指摘している。これはいったいどういうことだろうか。PISAはあまりあてにならない調査なのかもしれない。

「教える」教育と「考える」教育
たしかに、そういう面もあるかもしれないが、学校教育としては、「詰め込み」も「考える」教育もやっていない。学校は、背筋を伸ばし、たんにおとなしく座っていてくれる授業がよい授業とされている。この状態は、教師が王様のように君臨して、子どもたちは下々の者のような状況になるので「学級王国」と揶揄される。しかし、実際に校長に一目おかれるのは「学級王国」ができる先生である。安心して見ていられるから。そんな学級経営が評価が高くなる。授業内容がおもしろかろうが、つまらなかろうが、「学級崩壊」せず秩序が保たれていればそれでいいのだ。

だから、学校教育に期待してはいけない
自分の教育を「詰め込み」にするも「考える」教育にするも、各児童生徒が考えて取捨選択するしかないのだ。

中沢 良平(小学校教諭)
中沢 良平ブログ

日本の子どもが数学のできない理由

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小学校の算数は、数学の基礎だ。と思われている方は、認識を改めた方がいい。

小学校の算数の授業は、国語の授業だからである。で、国語の授業は何をやっているかというと、道徳の授業なのである。もちろん、道徳の授業は道徳の事業をやっている。道徳オリエンテッドな学校教育である。残念だが。

さて、では算数でどんな授業が展開されているかというのをみなさんにご紹介したい。これはわたしの勤めている学校の2年生の学年主任(校長からは絶大の信頼を勝ち取っている人)の授業の様子だ。

2年生の算数のハイライトといえば、もちろん九九である。この九九をめぐって、こんな授業が行われている。(おそらくこれが平均的な進め方である)まず、子どもたちにこういう質問をするのだ。

①5×2の計算の問題を考えましょう。
②2×5の計算の問題を考えましょう。

子どもたちの頭の中は??????になる。

正解はたとえば

①鉛筆5本ずつを2人に上げます。全部で何本いりますか。
②鉛筆2本ずつを5人に上げます。全部で何本いりますか。

とならなくてはならない。

5×2と2×5はまったくちがうということになってしまうのだ。理科系の人間のわたしには、ここにこだわる理由がまったくわからない。もしかしたら、すごく算数教育的な意味があるのかもしれないが、さらに罪深いことに、これは小学校2年生にはぎゃくにわかりにくい説明になってしまう。

5×2と2×5も交換法則で同じでいいではないか。と思う私は圧倒的少数派で、これにこだわりを見せて数時間もかけてこれをできるようにするのだが、子どもたちはますます混乱をおぼえるのである。そんな説明しないで、九九を覚えさせた方がいいのでは。

そして子どもたちは、この5×2と2×5のちがいをノートに言葉で説明しなくてはならない。これは算数は直感的にできても、国語がちょっと苦手な子どもにはかなり負担である。だいたい算数の言語は、国語よりも数学的記述においてはすぐれているはずである。

しかし、これが日本の小学校ではオーソドックスなのである。

わたしはこのような教え方では、これでは数学の才能をスポイルしてしまうのではないかと危惧しているのだが、みなさんはどう思うであろうか。

ちなみに、こういうことから離れてるので数学になると、楽しいと思うようになる子どもも少なからずいる。しかし、そこまでに脱落してしまう子どもを大量に作っていることに、わたしは危機感をおぼえるのだが。
それにしても、この算数の説明はわかりにくすぎないだろうか。これは、九九に限らず、小学校の文系先生たちの教える算数教育の大問題なのだとわたしは思っている。

中沢 良平(小学校教師)
中沢良平ブログ

ランドセルの着用は、「空気を読む」練習である

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元中学教師の天野さんがランドセルの着用について疑義を呈されている。その疑問に答えられるかどうかわからないが、現場の空気をお伝えできればと思う。

私の勤めている小学校も、とにかくランドセルを強要する。いくら高給なランドセルを使ってても、6年間も使っていたら、肩ベルトが切れるということはよくある。

「壊れたからリュックにしていいですか?」という質問を子どもや保護者から受ける。私はぜんぜんかまわなないと思う(リュックならころんだとき両手が使えないと危ないという理由も回避できる)のだが、管理職や教務、他の教員に訊くと「否」である。買うか、修理させるか、それが無理ならば学校から貸し出す。

私から見ると、いまどき大きい子では170cmくらいにはなるのも珍しくない小学生がランドセルを背負ってるのもちょっと不自然な気がするが、学校はどうしてもランドセルを使わせたいらしい。これはランドセルの機能性というよりも、ランドセルを”強要する=規律を守らせる”という学校側の事情が大きく作用しているようだ。
そこに合理的な理由は、ない。みんながやっていることが”善”なのだ。

学校が、ランドセルメーカーや量販店と癒着していることはないが、未必の共犯関係になっていると思ってしまうのは、私だけだろうか。学校は勉強するところではないのだ。

中沢 良平(小学校教師)
中沢良平ブログ

学校は簡単なことを難しく教えてくれるところである

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三角形の面積の出し方を難しく教えると
みなさんは、お子さんを漫然と学校に行かせていないだろうか。現場の人間としては、あれほどわかりにくく教えることもないんじゃないかと思っている。
たとえば、三角形の面積の出し方。「面積を出すには、底辺×高さ÷2その理由はね・・・」と教えて練習問題を解かせようなんて教え方はアウトである。

子どもたちは三角形の面積の出し方を「発見」する
子どもたちは、三角形の面積の出し方を「発見」しなくてはならない。
正解は、「三角形を2個組み合わせると平行四辺形になって、これは底辺×高さで出せることはもう習ってるから、それを半分にしたら、三角形の面積になるね」と子どもに「発見」させなくてはならない。
「いい授業じゃないか」と思った方もいるだろう。しかしこれは、「わかる子にしかわからない」のである。これは塾にも通っていない平均より下の子どもには、かなり難しい指導法と言っていい。
この考えが出てくるのは、「すでに解法を知っている子ども」である。
小学校は、”21世紀型の学習=なんでも話し合いで解答を導き出す”という建前なのだが、なんにもわからない子どもを指名しても授業は滞るばかりなので、「わかっている子ども」を意図的に指名する。そして子どもの発言が授業を作っているように「見せる」のが「よい先生」である。

なんにも知らないで授業を受ける子どもには、いったい何を話しているのかすらもわからない。逆に「すでに知っている子ども」には「なにをあたりまえのことを」となる。

なんでこんな授業になったのか
なんでこんな「話し合い授業」になるかというと、公立校のパイロット・スクールである国立付属小学校ではこれができてしまうのである。国立付属小学校の子どもは、「知っていても新しい単元は知らないものとして授業に臨まなくてはならない」という不文律と、「先生がいってほしいことを読み取って答える」という習性が身についている。だから、見事に「話し合い授業」が成立してしまうのだ。
それを見た文部科学省のえらい人たちが、「こんな創造的な授業は全国に広めなくては」と学習指導要領に盛り込み、全国津々浦々で実践されることになる。

学校は格差を拡大していないか
そして今日も「話し合い授業」によって、取り残される子どもが大量に出ているのだ。
学校が格差拡大を助長しているように見えるのは、私だけだろうか。

中沢 良平(小学校教師)
中沢良平ブログ


やっぱり日本の学校教育は、日本企業に向いている

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中央大学の竹内健教授が東芝の意思決定について

積極投資したカリスマと、その後に問題の隠蔽を続けた、年功序列で来たイエスマン経営者という組み合わせが、取り返しがつかないほど損失を拡大させてしまったように感じます。

と述べている。

学校教育は年功序列で来たイエスマンを作るのは得意分野である。なぜなら、現在の学校教育の目的がそのようにできているからである。文科省のひとは「個性の時代」とかいうが、あいかわらず学校現場ではいかに多くのイエスマンの子どもを作れるかが、職員室内での教員の評価を決める。この場合、カリスマは教師となる場合が多い。

2015/12/29付日経新聞では、阿部彩首都大学東京教授が「公教育の立て直しが急務」と題して

まずは義務教育段階で、すべての子どもが中学3年までに身につけるべき学力を確実に習得できるように徹底すべき

と述べているが、残念ながら教育現場では、イエスマンを作るための態度指導や部活動での過剰なコミットメントのほうに重きが置かれすぎていて、職員室で学力向上の話題はほとんど俎上にあがらない。

とにかく日本の教育は空気を読むことに力点をおいている。

2015/12/26付週刊東洋経済では、厚切りジェイソンことジェイソン・ダニエルソン氏が、「ここがおかしい日本のIT」というインタビュー記事の中で、日本のIT業界の停滞を「決断しているリーダーが不足している」と喝破している。そしてその原因の一例を、ご自身の4歳の娘さんが通う日本の幼稚園で、紙飛行機ですら先生のいうとおりに作らないと怒られるという「悲しい文化」に疑問を呈して示している。

つまり日本の教育は、平成27年が終わろうとしている今日でも教師が「カリスマ」で「年功序列で来たイエスマン」を作りつづけていて、それがじっさい多くの日本の企業ではフィットしてしまうのだろう。いや、ちがってほしいが。

これは、さきに企業があってそれに教育が合わせているのか、教育が現状のままだから企業の人材も変わらないのか、どちらが鶏でどちらが卵かわからないが、とにかく両者は補完的に共存してしまっているところに、日本の教育の変わらなさが表れている。

子育て中のみなさんが思われているより、学校ははるかに前近代的なのだ。

中沢 良平(小学校教師)

鴻海「40歳以上の雇用は守らない」は日本の教育問題

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郭台銘会長の発言「40歳以下の雇用は守る」は、期せずして日本の雇用形態の問題を浮き彫りにした。

鴻海は、日本の会社においては、その企業の特化した職人芸や、空気を読むことに地道をあげてまったく実践的でない能力を研鑽してきたということをよく理解している。これだけ異文化理解している経営者は端倪すべからある人物ではないだろうか。郭台銘会長のもとでぜひ再建をしてほしい。

しかし、これは日本で教育にたずさわるすべての人間は虚心坦懐に受け止めなくてはならない。

なぜならば、”空気を読む”能力を身に付けさせることだけが学校教育の拠り所だったからだ。学力をつけるなら、圧倒的に塾産業が進んでいるし、追いつきようがない。

塾歴社会という本が話題になっている。当然”学力”だけを身に付けさせるなら圧倒的に塾が優れているし、そこには、試験のたびの序列というプレッシャーこそつきまとうが、”みんな仲良く”とか”友達が多いほうが素敵ですよ”といった個人の努力ではどうしようもない集団主義の押しつけはないので、いじめがおきる原因も少ない。

日本の公教育は、”空気を読む”という、日本人にとっては一大事を伝承するということにおいて、そのレガシーを維持してきたといってまちがいない。

われわれ教育人は、ほんとうの意味で児童生徒の将来を考えなくてはならない岐路に立っているのである。シャープの案件は、「学校で言われている通りにやっていると、こんな結末を迎えますよ」と言われているように思えていたたまれない。

中沢 良平(小学校教諭)

学校は いじめを防げないし 解決できない

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神戸市がいじめを100%解決したと宣言してそれに対して疑義が呈されている。役人という人たちはなんと思いきった見切り発車をするのかと感嘆する。

現場にいれば、いじめはぜったいに解決できない構造になっていることを、まざまざと見せつけられる。

たとえば、いじめ対策としてはこれが最大限と思われる対応がある。長野県の中学校の先生が実践されているいじめ対策だ。たしかに、すばらしい。自分もほんとうに見習いたい。しかし、これは”泣き落とし”だろう。ようは加害者の情に訴えて、考えを変えてもらうという実に不安定な解決策しか現場にはないのだ。いじめをルールで解決するという基盤は学校には、ない。しかも、これはどんな学校でも教員でもできるかと言えば、難しいだろう。

教員は、こう教えられている。いかなる場合でも、「”被害者”は善で”加害者”は悪である」と。こう言わないと、教員採用試験ももちろん通らない。採用試験で、「いじめが発生するときには、いじめられる側にもそれなりに問題がある場合が多い」という正否を問う設問が出れば、迷わず×をつけなくてはならない。

しかし、この時点で、致命的なボタンのかけちがいがおきる。”被害者”は、悪いのだ。なぜかというと、”加害者”は馬鹿ではない。むしろ賢い。必ず”被害者”の”悪い”ところをつくからである。”被害者”は遊んでいるときルールを守らない。”被害者”は空気を読まず発言し場をぶち壊す。”被害者”はいつも気持ちのわるいいやなことをしてくる。だから迷惑者なのだ、と。こういった空気を”被害者”以外の大多数の子どもが共有してしまうのだ。

そして、大事になって校長まで関わるようになると、校長は「いじめは、”被害者”はぜったいに悪くありません」という大本営発表しか言えなくなるので、いよいよ事態はこじれる。”加害者”の保護者は、「あちらにも原因の一端があるのに、こちらが100%悪いというんですか!」と。”加害者”の保護者の立場に立てば、あたりまえの反応である。

つまり、現状では、”被害者”には非がないという文科省と教育委員会の理屈から、”加害者”とその保護者がむしろ反発してしまうという事態を生んでいる。

わたしは、保護者に年初からこう伝えている。「いじめにはいろいろな理由があります。”被害者”にも非があります。でも、とにかくいじめをやめていただくこと、それがいちばん大事なことです」と。しっかり話し合えば、伝わることだという感触は、ある。

でも、もし、いじめられたら・・・。「学校には行くな、逃げろ」 としか言いようがないのだ。その点を踏まえて、みなさんには賢く学校と関わってほしいと思います。

アゴラ読者の子育て世代のみなさんには、ご自身の住んでいらっしゃる集合住宅の修繕計画ていどには、学校の環境に関心を持ってほしい、というのが、一教員の切なる願いである。

中沢 良平(小学校教諭)

新学習指導要領の改訂は、日本の企業文化の否定

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学習指導要領の改訂
平成32年度には、学習指導要領が改訂される。小学校で英語が教科として本格的に導入されるほか、高校の学習内容も大学入試の抜本的改革を視野に大幅に改定され、地歴や理数などの分野で新科目が設けられる見通しとなった。

新学習指導要領の素案は、日本社会を「将来の予測が困難な複雑で変化の激しい社会」と位置づけたうえで、育成すべき能力として、(1)主体的な判断(2)議論を通じて力を合わせること(3)新たな価値の創造の3つを提示。物事を多角的・多面的に吟味する論理的思考のほか、自国文化や異文化への理解を教育することの必要性を強調している。

理想は高邁だが、実社会との乖離はいかんともしがたい。

しかし、こういった能力は、日本の伝統的な企業では歓迎されるのだろうか。甚だ疑問である。なにより教育現場が拒否反応を示すだろう。(3)新たな価値など創造されては、教師は学級を統率できなくなる。私が教員になったとき、学校は勉強を教える場所だと思っていた。しかし、現実はちがった。学校は2016年の今日でも「空気を読む」ことを徹底して叩きこむ場であった。

20160326新たな価値の創造は根づくか
以前のように世界での競争も今ほどは厳しくなく、変化が緩やかな時代では、各事業部門からのボトムアップで事業を決め、経営トップの役割は「人身掌握」(その定義も曖昧だが)でよかったのかもしれない。(3)新たな価値の創造が重要なのは、議論の余地がない。

が、日本の職場におけるコミュニケーションの問題は、ビジネスのもっと根幹的な問題にかかわる。製造業が強かった時代は、周囲にあわせたり、グループで仕事をしたりする、協調性を重視したコミュニケーションは効率的だった。しかし、知識産業が重要性を増す世界では、人と異なることを考えつくことこそ強みになる。知識産業の世界では、重要なのは、言われたことを正確にこなすことではない。市場に存在しない製品やサービスを発想すること。人と同じ意見、同じ発想では、画期的な商品やサービスが生まれない。

「同調圧力」を醸成できるかどうかが学級経営の巧拙
戦前の軍国の時代は、兵役牢獄国家と言われるほど、上からの厳しい管理の社会だったという。この一斉管理方式は、有無を言わせず一方的に教え込むには都合のよいシステムなので管理するものにとっては楽だが、管理されてしまう方からしてみると、どうなのだろうか。実は、学校内にはいまだに、この一斉管理方式が幅を利かせている。なにかといえば、校庭で「集合!」「気をつけ!」「右へならへ!」と掛け声をかけられる。

(現代の教育業界で)指導力があるということで有名な教師の著書から引用しよう。
例えば、全校朝会で

①朝礼の間、どこを見ているか?
②あいさつの声はどのくらいか?
③例をする時の角度はどのくらいか?全員そろっているか?
④「前にならえ」の号令でどれくらい動くか?
⑤終了した後、どのような姿で教室に戻っていくか?

をきっちり教えるのがよい教師だと述べている。しかもこの著者はカリスマ教師だ。その一糸乱れぬ整然とした行動は、さぞ気持ちのよいものだろう。

つまり、「全体進め!」と軍隊式に整列させられていた時代とあまり変わっていないのである。日本の教室では、今でもこのように巧妙に「空気を読む」教育が徹底されているのである。こうして、上司の意向を忖度して、不正会計までしてしまう土壌は、子どものうちから培われる。

平成32年度改定の学習指導要領が、画餅に帰すことのないことを願うばかりである。

中沢 良平(元小学校教諭)

タイで全裸になった企業を、学校は嗤えない

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入学式の頃合ですね。希望に胸を膨らませるその前に、あらためて学校の存在意義を考えてみませんか。みなさんは学校は勉強するところだと思っているかもしれません。けれども、先生たちの意識はまったく別のところに向いているかもしれません。

20160404

すこし前に、タイ社員旅行で集団全裸という事件がありましたが、この記事によると、「社員は「解放感でタガが緩んだ」なんて言い訳では許されそうもない」と書いてあります。

しかし、この社員たちが楽しんでやっているのではないということくらいは、企業に勤めた方々にはよくわかると思います。この場面で、「役員にみんながやらされているから、おれだけコンプライアンスや良識を盾に、断るわけにはいかないよな」という「同調圧力」を感じない人はいないでしょう。

たとえば、学校で組体操をするさい、子供や保護者から、「危険だ!やりたくない!」という声が上がりにくい。これも、「同調圧力」のなせる業でしょう。全員が組体操に取り組んでいるのに、「ちょっと危ないんじゃないですか?」「やり方を変えるなり、演目を変えるなりしたほうがいいんじゃないですか?」「なんの意味があるんですか?」などと言おうものなら、「なんだよ、水を差しやがって、空気読めよ!」「根性がないな」となるし、じっさい現場では、そのような空気を作れる教員が”とても優秀な教員”と言われています。

組体操に限らず、学校では無駄なことが多いです。暗記とそれを吐き出すためのテスト、学級会、部活やクラブ活動、入学式や卒業式、掃除。

このような活動を通じ、生徒のみなさんは集団行動の大切さを学びます。しかも教員は、その態度教育に、勉強よりもはるかに多くの労力を注いでいます。教員の命と言っても差し障りはないでしょう。しかし、この勉強よりも力を入れている態度教育の結果が、タイで全裸になったり、役員からの無言の圧力で利益の粉飾もいとわなかったりすることにつながっていると思うと、私はとても悲しくなるのです。みなさんも入学前にもう一度、学校のありようについて、考えてみませんか。

中沢 良平(元小学校教諭)

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